仲間の体験談 Tさん

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こんにちは、「アディクトの○○ー」です。これは、自助グループのミーティングで自分の話をする前にみんなが言う言葉です。依存症の~、薬中の~、アル中の~、です、と言い方は様々ですが、「私は依存症です」とまず認めて、立ち位置を定めてから話し始めるという仕組みになっているんですね。私は、お陰様で今年の六月にクリーン5年をむかえることができました。これはこの5年、自分は依存症なんだけど、元気に生きようよ!とやってきた感謝の道でもあるんです。今回は、その辺りを語る事ができればと思います。

私が施設につながったのは、今から8年前になります。琉球ガイアにたどり着く前に、群馬県の藤岡と、東京にある老舗の施設にお世話になりました。今でもこの時期の出会いや経験は宝物です。でも1番苦しかった時期でもありました。私は、10代の中頃、高校に入ってすぐ不登校になりました。そして、そのまま高校を一学期で中退しました。中学では少しぐれたり、たまに学校をさぼったり、でも成績は中くらいをキープしていました。不良の仲間に憧れ、くっついてはいくものの、喧嘩や窃盗は実はびびって何にもできなかった、そんな少年だったように思います。両親は、共働きでずっと子どものために、働き続けた、そんな人生です。きっと、どうしてあの家庭の子が薬中に??と言われるような家だと思います。父は社会的に地位のある人で、曲がったことが嫌いな、正義感にあふれる人です。母はその父に追従するような、自分を抑えて、子どものために毎日、自転車で通勤していました。女性ですが銀行員で、30数年、勤めあげて退職したような女性です。その退職の年に、私は最初の底突きを経験し、両親を巻き込み一家全員をどん底に突き落としてしまうのです。28歳の春頃です。今から8年前の話になります。

「警察だ!」と、見知らぬ男が二人、二階で休んでいた私の前に突然現れたんです。切れ目と眠剤の影響でふらふらで、良く覚えてはいませんが「終わった、、」と妙に安心したのを覚えています。この頃の私は、生きていくことがどうにもならなく、ただ、薬を使い続けるしかありませんでした。他の選択肢はもう残っていなかったんですね。ただ、それを自覚できなかった。なんとか、なんとか助かろうとしていた。なんとか、楽になりたいと思っていた。だけど、気づくと薬を注射しているんです。一週間寝ずに、ふらふらになりながら、母親に会ったことがあります。いつもは、薬を使うと、部屋に引きこもり、家族とは会わないようにして、そっと自慰行為にふけるんです(笑)もう、ひたすら現実から逃げるしかなかった。でも、その時は会ってしまった。母は、注射痕だらけの私の右腕を凝視していました。母も、もう何日も寝ていないのでしょう。瞳孔が少し開き、疲れ切った顔で、見続けていました。心配しているのが、痛いほど伝わってきました。でも、もう止まれなかった。だから、心配されていることが鬱陶しかった。だって、なんとかしたいと望んでいるのは、本当は私自身なのですから。でも、何もできない、変えられない、薬を使うしか楽になる方法がわからない、、、。この頃は、夜中にそっと居間にいくと、ご飯がおいてありました。私はメモに(書いた内容は忘れましたが)一言二言書いて、また部屋にもどりました。何日かたって、降りるとそのメモに返信が書いてある。そんな生活でした。同じ家に住んでいるのに、筆談なんですね(笑)。家族のギリギリのコミュニケーション。

何ヶ月かたち、どうやら両親が家族会につながったみたいです。今なら、そこで何が話され、アドバイスを受けるのかは大体想像がつきますし、同意もできます。しかし、この頃の私にそんな余裕はありません。そして、少しづつ両親の私への対応や、家の様子が変わっていったんです。何も言ってこなくなってきたし、でもたまに手紙で自分の気持ちは伝えてくる。「あなたが心配です」「病院の手続きはとれます」等々。何よりも困ったのは、いつも盗んでいたお金の場所にお金がなくなってしまったことです。私は暴れました。それはそれは暴れました(笑)。冷蔵庫も壊して、初夏の暑い日に発泡スチロールの箱に氷で冷やしていたのを覚えています。ごめなさい_(._.)_ この、兵糧攻めは効きました。金庫もあかなくなって、頭にきて鍵穴にアロンアルファを流し込みました。鍵屋さんがきてました。ごめんなさい_(._.)_でも、どんなにしても両親はあきらめなかった。僕も、あきらめなかった(笑)。本当にしぶといです。

私は、自傷行為を始めました。中学の頃から多少リストカットをしたりする子どもではあったのですが、ここにきて再発したんですね。これには、いろんな想いがこもっています。苦しい気持ち、分かって欲しい気持ち、安心したい気持ち、こらしめる気持ち、、。でも、覚せい剤を使用した精神状態での行為は、だんだんエスカレートしていきました。カッターで胸を切り、ついには顔にも傷をつけていました。かっこいいと思ってやったんです。もう狂っています。それを両親が見てしまった。あとで聞いた話ですが、これがきっかけになって警察に通報することを決心したそうです。もう、この子は死んでしまう、それを望んでいると思ったそうです。この辺りのいきさつは、最近になって父から聞くことができました。親にとって、本当につらい決断だったと思います。そして本当につらい時間だったと思います。そして、私もつらかった、、。

逮捕がきっかけになり、私は二ヶ月間留置されました。初犯のお決まりのコースをたどり、判決をむかえ執行猶予をいただきました。保釈で出た私は、そのまま埼玉の病院に入院していましたが、判決の後の外泊中にリラプスしました。この時は、本当に死のうと思い、致死量と思われる量の覚せい剤を注射しました。しかし、死ななかった。意識障害を起こし、現実と妄想の区別がつかなくなり、小さな部屋の中で縮こまっていました。妄想の中で逮捕され、懲役14年をうたれていたんです(笑)。そこへ、母親が様子を見に来てくれ、妄想だと認識してものすごく安堵したのを覚えております。これで、施設入所を受け入れました(笑)。思い残すことはありません。やっと、底つきました。生きていてよかった本当によかった!  その後、1年と4ヶ月の間、群馬の施設におりました。そして施設移動して東京に移り、1年と6ヶ月。ずっと薬が止まりませんでした。正直に言えば、止めようとできなかったんです。止める理由がないといったほうが正確でしょうか。施設生活は引きこもりの私には、相当なストレスでした。集団の生活で学ぶことも多かったですけど、楽しみは自慰行為くらいなもの(笑)。たまにリラプスするのは気分転換みたいな気持ち、刺激が欲しかったんです。覚せい剤を使用したのは東京ですべった時の一回だけですが、仲間が医者からもらう処方薬やガス、酒、なんでもよかった。ただ、逮捕は怖いので、安全にリラプスしていました(笑) でも、この病気は進行性だというのは本当でして、どんどん症状が悪くなっていったんですね。症状といっても妄想とかではなく、周りとの関係性というのでしょうか、やることがひどくなるのです。最終的には施設の事務所に忍び込んで、仲間の大切な処方薬を盗み、ヨレヨレになってベッドで四つん這いになっている所をスタッフに見つかりました。でも、その記憶がない私は、翌日しれっと普通にしていました(笑)。「お、たろーおはよう!盗んだ自転車もどしておけよ!」と、笑顔でいわれた私はなんのことがわかりませんでした。どうやら、昨日、自転車を盗んできていたらしいのです。だんだんと様子がおかしいことに気づいていきます。ベッドはこぼしたアイスでべちょべちょ!洋服もべちょべちょ!仲間からは心配される。でも、何も覚えていないんですね。怖くなりました。ついに、こんな風になってしまった、、。ここまでたどり着いてしまった、、。 これが、二度目の底つき体験です。もう東京じゃだめだな、とのスタッフの提案にも納得するしかありませんでした。何よりその時は、自分がこのようになってしまったことへのショックでいっぱいでした。この経験が分かれ道になりました。今でも大事な瞬間として大切にしています。
とんとん拍子に、沖縄行きが決まりました。事件から四日後、羽田空港へ向かう車の中で、初めてガイアの施設長とお話ししました。とても好感がもて、安心しました。同行したスタッフの心遣いでJシート(ちょっとリッチなJALの席)で沖縄に来ました(笑)。飛行機の中からエメラルドグリーンの海が見えて一気にテンションがあがりました。すごくきれい!!空港に着くと、三人のスタッフがむかえにきていました。もともと引きこもりの私は新しい環境が極端に苦手です。変な汗をかきながらも初めて見るマングローブや広い空に感激しながら、満面の笑みを全力で作っていました。
ガイアは、自由です。それまでの施設経験がある分、それははっきり感じました。運動中心のプログラムや、やりたいことを優先させてくれる施設の方針とサポート態勢、何かあれば直接、施設長が話を聞いてくれることは、今の私の回復にとって欠かすことのできなかった時間であったろうと思います。もちろん、大きな空の下でみんなでやった野球やサーフィン、山原の森や川上り、シュノーケリングなども他の施設では経験できなかったことばかりです。回復とは、楽しむことである、というのは今の私の大切な価値観です。

現在、私は沖縄の大学の3年生です。夏休みですが実習にがんばっています。来年の国家試験合格が、一応の目標です。このように書くと結果だけ捉えられてしまいそうですが、沖縄にきた5年前には夢にも思わなかったことです。高校を一学期で中退したので、始まりは高卒認定の資格取得からになります。しかし、そのきっかけは、それまで働かせていただいたホテルを首になる事件です。おばちゃんと、大げんかになってしまったんですね。(でも、あんなに憎たらしかったおばちゃんがいたからこそ、今の私があるんですね。だから、感謝ですね!今、気づきました!!) このアルバイトを始めるきっかけになったのは、施設長の鶴の一声でした。まぁ多分ただの思いつきですが(笑)、私にはドンピシャのバイトだったんです。
回復の道に乗るまでには、このように長い時間がかかった私ですが、それでも私がこれまで出会った仲間達のことを思えば短い方だと思います。そして、ガイアに入れたこと、出会い、何より私が家に帰ってこないように、実家まで引き払い連絡先を変更することまでやってくれた両親に、今は心から感謝しています。ずっと、恨んでいました。私を捨てて、他人に任せたんだ!子育ての責任から逃げたんだ!!と本気で思っていました。何しろ、どうしたら一生親の扶養で生きていけるかを考えていた私には、完全なる裏切りですから(笑) 私たちが、どこで、どのように回復するかは神様がちゃんと考えてくれています。私たちは、それに委ねる練習が必要なんです。 沖縄に来て、うちなーんちゅの優しさ、おおらかさ、適当さ(笑)、そして豊かな自然に心をマッサージしてもらいながら、少しづつ、仲間の事を受け入れられるようになり、好きになっていきました。迷ったときは、大きな空を見上げています。そんな場所が沢山あるんです。怒ったり、喜んだり、悲しんだり、、。私は、今、はっきりと8年前より幸せです。 最後に、大切な仲間から教わった言葉をおくります。何かあるたびに思い出してきました。

「 おれが おれがの 我を捨てて お陰 お陰 の下で 生きろ! 」

 

長文を読んでくださりありがとうございます。感謝いたします。

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